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日本球界にはかつて2メートル超の投手がいた |
「野球選手・馬場正平」の成績やエピソードが楽しめる
プロレスファンにとって永遠のヒーローである「東洋の巨人」、ジャイアント馬場さん。
馬場さんが亡くなって、2024年で25年が過ぎました。
でも、今でもテレビのアーカイブ番組などでリングで闘う馬場さんの姿は視聴可能。
身長209センチの巨体から放つ16文キックや脳天唐竹割り(空手チョップ)。繰り出す技は、まさに豪快。
オールドファンはもちろん、若いファンも映像で初めて見る馬場さんのファイトに魅了されています。
ファイトシーンとともに馬場さんへの関心も高い。特に興味をひいているのが、馬場さんがプロ野球の投手だったこと。
「馬場さんは若い頃にプロ野球の投手だったそうだけど、ドジャース・大谷のような剛速球投手だったの⁉︎」
「馬場さんはどこの球団に所属して、一軍公式戦で何勝しているの⁉︎」
「馬場さんはプロ野球選手としてすごかったの⁉︎」
なんて悩める声がたくさんあがっています。
そんな疑問を解消してくれる本があるんです。「巨人軍の巨人 馬場正平」。
馬場さんの生い立ちやプロ野球時代を詳細に取材したドキュメンタリー作品。公式戦の成績やエピソードが楽しめる傑作です。
この記事では作品に記された「野球選手・馬場」について、
- 病気による巨体に悩み続けた馬場さんの少年時代
- 馬場さんはアスリートタイプの「巨人」だった
- 巨人〜大洋、不遇と不運に泣いた「巨漢投手・馬場」
上記の注目したい3つのエピソードを紹介&解説します。
この記事を読めば馬場さんのプロ野球時代のくわしい成績やどんな投手だったのかが分かる。
さらに、この作品を手にとってページを開きたくなりますよ。
ジャイアント馬場さんと作品について
★新潟が生んだ「東洋の巨人」
ジャイアント馬場さんの本名は、作品のタイトルにあるように馬場正平(ばば・しょうへい)。
1938(昭和13)年1月23日生まれ、新潟県三条市の出身。
1999(平成11)年1月31日、大腸がんによる肝不全のため61歳で亡くなりました。
新潟での生い立ちやプロ野球時代については、次項から紹介していきます。ここではプロレス時代について、ざっと紹介します。
馬場さんはプロ野球引退後の1960年4月、プロレスの父・力道山が率いる日本プロレスに入門。9月にプロデビューしています。
身長209センチ、体重145キロ(全盛期)の超巨体。まさに巨人。
1961年からの米国修行時代には「東洋の巨人」として人気を博し、1963年の帰国後は日本プロの若きエースとして活躍。
力道山死後の1964年からは豊登と二枚看板として活躍。1966年にはインターナショナル・ヘビー級王座を獲得。
後輩のアントニオ猪木さんとも「B・I砲」として人気を博しました。
1972年8月に日本プロを退団。10月に全日本プロレスを旗揚げ。全日を代表するタイトルPWFヘビー級王座を獲得。
1974年にはジャック・ブリスコを破って最高権威NWA世界ヘビー級王座に。
得意技は16文キックや32文ロケット砲(ドロップキック)、河津落とし、ランニングネックブリーカードロップなど。
1998年の引退までルー・テーズ、デストロイヤー、ハーリー・レイス、ドリー・ファンクJr.ら名レスラーと激闘。
アブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディら強豪と死闘を演じました。
★「巨人軍の巨人 馬場正平」について
この記事で紹介する作品の著者は、スポーツライターの広尾晃さん。
プロ野球選手たちのエピソードや記録にまつわる著書を多く発表。「巨人軍の巨人〜」は2015年11月に発売されました。
実はワタシ、馬場さんにお会いしたことがあるんです。本業の新聞の取材で1995年に米国へ出張した時のことです。
ロサンゼルスのホテルで、馬場さんが元子夫人といらっしゃるところを見かけて声をかけさせていただいたんです。
遠くからでも「馬場さんだ!」とすぐ分かる巨体。人柄は優しくて「仕事できたのか、がんばれよ」とサインをいただきました。
巨体から伸びた長い腕と足。リング上での豪快なファイトは大好きでした。
さらに「この巨体でプロ野球の投手をやっていたのか。どんなプレーぶりだったんだろう?」。ずっと気になっていました。
そして最近「巨人軍の巨人 馬場正平」を入手。今まで知らなかった野球時代の成績やエピソードがたくさん乗っていることにびっくり。
面白くて一気に読んでしまったことが、この記事を書いたきっかけです。
1.病気による巨体に悩み続けた馬場さんの少年時代
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馬場少年は野球が大好きだった |
★新潟・三条の「よろず屋」の末っ子
馬場さんが生まれたのは新潟・三条市。昔も今も鍛冶屋さんが多いことで有名な市で、お父さんも鍛冶屋さんだったそうです。
でも体を壊しがちで、家計を支えるためお母さんが「よろず屋」を経営。生鮮食料品などを取り扱う今のコンビニの走りといえます。
馬場さんは4人きょうだいの末っ子で、10歳のころからお店を手伝っていたそうです。
商品を積んだリヤカーを自転車で引いて何十キロも先の市場に運んだり。巨人に入団するまでの7年間も続けたとか。
この店のお手伝いがアスリートとしての足腰を鍛えたようです。
1944(昭和19)年に市内の小学校に入学。この時点ではクラスで一番小柄だったそう。
やんちゃな子どもで、自伝には列車が近づくまで線路に寝ている遊びをして列車を緊急停止させたことが記されています。
小5のときは152センチ。中学ごろから1年に7・6センチ伸びて、2年のときは176センチで体重60キロ。
でも馬場さんにとってはコンプレックスで、記念撮影のときなどは、わざと背中を曲げて目立たないようにしたほど。
馬場さんの急激な成長の原因は、脳の病気だったんです。
★脳下垂体の腫瘍(しゅよう)
馬場さんが少年時代に発症したのは「脳下垂体腺腫(せんしゅ)」という病気だそうです。
「脳下垂体」は頭蓋骨の中心にあり、文字通り脳にぶら下がっている重さ1グラムの小さな器官。脳下垂体腺腫はこの器官にできる良性の腫瘍。遺伝ではなく、発症する原因が分からない。小さな器官だが、人間の成長や生命維持に決定的な役割を果たしている。腫瘍ができる器官の部位によって、症状が違う。
15歳までに発症し、成長ホルモンが過剰に分泌されると身長が異常に伸びて巨人症になる。体が大きくなるだけじゃなく、手足の先端が巨大化し顔の形が変形する。発症の確率は2000万人に1人。宝くじで1等が当たるのは約10万人に1人。巨人症の場合、15歳で発症するため平均寿命は40歳台。過剰な成長ホルモンのため成人病などが一気に押し寄せる感じ。
現在は巨人症の治療法は確立。鼻から腫瘍にアプローチする内視鏡手術などがあり、病気を早く発見して「止めるか」が重要。
馬場さんが子どものころから医学界では「巨人症」は認知されていたけど、一般市民の間では知られていなかった。
だから子どものころに「症状」として気づくのは難しかったそうです。
むしろ親にとって子どもが大きくなるのはうれしいこと。だから周囲は病気だとは思わなかったかもしれません。
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巨人症は脳下垂体にできる腫瘍が原因 |
★大きな体がコンプレックスに
子ども時代の馬場さんは、きかんきでやんちゃ。いたずらもたくさんしていた。絵も大好きでうまかったそうです。
一方で、大きくなる体をコンプレックスに感じていたそうです。
巨人症による巨体の人は、動きがスローモーになりがち。しかも容貌が独特なため、周囲の好奇な目にさらされがちになるからです。
人にとって、自分が周りの「普通の人」と違うことはすごく気になるものです。
だから馬場さんは記念撮影や集合写真で、体を丸めたりして目立たないようにしていたんだと思います。
馬場さんが心に秘めていた悩みは、われわれが想像する以上に深かったはずです。
馬場さんは高校1年のとき、モルモン教に入信したそうです。
モルモン教はキリスト教の一派で、1830年に米ニューヨーク州で始まった新宗教。
馬場さんの入信当時、三条市にも宣教師と教会が存在したそうです。馬場さんは宣教師と知り合い、集会にも通い、そして洗礼へ。
教義も真剣に学び、儀式に携わる権限がある「アロン神権の執事の職」に選ばれたそうです。
集会や教会での交流は、深刻なハンデキャップを忘れるような時間があったのだと思う。
2.馬場さんはアスリートタイプの「巨人」だった
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野球は嫌なことを忘れさせてくれた |
★スポーツ万能だった小学生時代
巨人症は運動機能に影響を与えるため、動きがスローモーになるといわれています。
さらに巨体をコンプレックスに感じるため、引きこもりになったり心を病んだりする人もいるそうです。
ドッチボールは5年生のときに学校で一番に。卓球も好きでボールへの反応が速かった。相撲も強くて、町の相撲大会で「小学生の部」に出場。あまりの強さに出場を断られるほどだった。
広尾さんは、江戸時代の伝説的な強さをみせた相撲力士が巨人症だった可能性があること。
現在のアスリートで巨人症であることを公表している人を例にあげ、「アスリートタイプの巨人」と表現しています。
馬場さんもまさしく「アスリートタイプ」の1人。
現役レスラー時代は、芸人のモノマネでスローモーなイメージが強かったけど、若手のころのファイトシーンを見れば印象が変わります。
基本のレスリング技術がしっかりしていて、動きも素早い。得意技の一つであるランニング・ネックブリーカーは躍動感バツグン!
元新日本プロレスのレスラー、蝶野正洋さんの代名詞である関節技「STF」も披露しているほどテクニシャンなんです。
そして子どものころから「アスリートタイプ」の片りんをみせた馬場さんが、一番大好きだったスポーツが野球だったんです。
★長身選手として中越大会で優勝
戦後になって、野球は国民的なスポーツとして発展し人気も爆発しました。
当時は東京六大学リーグがプロ野球より人気があったけど、神宮の星たちがプロに進み人気も上昇していった一面があります。
馬場さんも野球に夢中で巨人ファン。小学生時代は三条市内の少年野球チームに入団。エースとして活躍したそうです。
中学に進むと野球部に入部。当時の身長は185センチで、チームの主力として活躍。主に一塁手で、投手としてもプレー。
中学野球の成績は記録として残っていないけど三条市、長岡市、柏崎市などからなる中越大会で優勝したそうです。
雪が積もって野球ができなくなる冬は、卓球の中越大会でも優勝。
バスケットボールでも、長身を生かしてゴール前のセンターとして活躍したそうです。
野球部には馬場さんの大きな足に合うスパイクがなかったため入部を断念。仕方なく美術部に入った。一方で、馬場さんの巨体のウワサを聞いた相撲関係者からスカウトが殺到。馬場さんは相撲を嫌って逃げまくっていた。
馬場さんは大相撲が嫌いだったそうです。力士の姿は自分のコンプレックスをある意味で象徴するものだったのかもしれません。
そんな馬場さんに転機が訪れます。高校2年の春、野球部長が靴屋さんに特注してスパイクをつくってくれたんだそうです。
晴れて野球部員になった馬場さんは、初めて硬球を握ることになりました。
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長身から投げ下ろす球は角度がついて打ちにくい |
★わずか3カ月の高校球児
馬場さんが三条実業野球部でプレーしたのは、わずか3カ月。高校2年時の公式戦終了まででした。
記録が残っている公式戦は春の北信越地区大会3試合、夏の新潟県大会1試合、秋の北信越大会の1試合。春の北信越大会では決勝で敗退。夏、秋の各大会はそれぞれ1回戦で敗退。エースとして活躍した期間は、わずか100日。公式戦は3勝3敗。練習試合を含めて出場試合数は10数試合だった。
「全国高校野球界一の巨漢」で「球威もなく、カーブの決め球ももたない」「巨体から投げ下ろす重い球は、打たれても伸びない。凡打で打ち取る戦法」
当時の新潟県勢は全国レベルでは強くなかった。そして新潟勢に勝っても、長野勢が強くて勝てなかった。それでも馬場さんは野球が好きで、高校卒業後も野球を続けたかった。
★巨人のスカウトが注目
高橋ユニオンズは1954年〜1956年までパ・リーグに在籍。現在の千葉ロッテの系譜にあるチームでした。
当時は新人選手獲得ではドラフト制度がない自由競争。巨人や阪神など資金力のある球団が有利。
高橋は資金不足で有望選手が集まらない。だから「入団テストに受かるんじゃないか」と考えたわけです。
巨人のスカウトは、親会社である読売新聞の新潟県版担当記者から馬場さんの評判を聞いて試合を観戦しアプローチ。三条実業、馬場さんの実家を訪ねて、支度金20万円、初任給1万2000円を提示。入団契約を交わした。
でもスカウトの声がかかる有望選手の支度金(今の契約金ですね)は200万円くらい。有望選手枠では最低ランクでした。
馬場さんの野球の実績は中学での中越大会優勝くらい。高校では春の北信越大会決勝進出くらいで、ほぼ無名。
馬場さんが入団を決めた1954年、巨人は中日に5・5ゲーム差をつけられセ・リーグ2位。連覇は「3」でストップ。戦前からの主力選手である千葉茂さんらが衰え、世代交代が迫られていた。そのため大型補強を敢行し、馬場さんを含め新人選手を20人獲得した。
名外野手としてV9時代前半に活躍し、引退後はヘッドコーチなどを務めた国松彰さんがいらっしゃいます。
世代交代を狙う巨人の期待を背負って入団した馬場さんですが、苦難の道が待っていたんです。
3.巨人〜大洋、不遇と不運に泣いた「巨人軍の巨人」
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巨人のかつての練習の地・多摩川グラウンド |
★二軍暮らしの日々
プロ1年目、1955年春のキャンプ。馬場さんは宮崎・串間で二軍スタートとなりました。
まあ今でも高卒新人が春のキャンプで一軍に抜擢されるケースは少ないし、ましてや馬場さんは高校は2年で中退。
巨体ゆえに動きが鈍かったし、フィールディングもよくなかった。球も速くなかったし、めぼしい変化球もなかった。
馬場さんの実力は県大会1回戦レベルというところ。野球自体の経験値も低く、プロでプレーできるレベルじゃなかった。球団は馬場さんの巨体に可能性を感じ、獲得した。
キャンプ後、馬場さんは東京・多摩川の二軍宿舎入り。多摩川グラウンドで練習の日々を送ります。
練習内容も当初は走り込み中心。100球以上投げても崩れない下半身の強さが必要だったようです。
それでも1955年6月22日のイースタン・リーグ大洋3回戦でプロデビュー。五回途中2失点で勝ち負けつかず。
基礎練習と同時に実戦も積ませる育成方針だったようです。
広尾さんは、馬場さんが1955年から1959年まで巨人に在籍した5年間の公式戦成績の詳細を調べています。ざっと紹介すると、
【1955年】二軍・3試合で0勝0敗
【1956年】二軍・7試合で2勝1敗
【1957年】二軍・12試合で4勝2敗、一軍・3試合で0勝1敗
【1958年】二軍・18試合で7勝1敗
【1959年】二軍・14試合で2勝4敗
通算5年。二軍は54試合で15勝8敗(記録判明分)、一軍は3試合で0勝1敗となっています。
一部の書籍とウィキペディアなどでは、二軍で3度の最優秀投手賞を受賞したとされています。
でも作品を書くにあたって、広尾さんが報知新聞の記録のエキスパートとともに調べた結果が上記の成績。
しかも当時の二軍のリーグは、現在の体制とは違い「最優秀投手賞」もなかったそうです。
馬場さんが一軍に上がったのは1957年で3試合。ほとんどが二軍暮らしでした。理由は「プロの壁」に阻まれたからです。
★スナップスローができない
馬場さんは二軍暮らしが続き、投手としての評価も高くはありませんでした。
理由は2つ。まず手首を生かした投球、スナップスローができなかったから。手が大きすぎて一般的な投手の球の握り方ができなかったそうです。
ボールは基本的に人差し指&中指と親指で握り、投げる際にはスナップを利かせつつ人差し指と中指で切るようにリリースします。
ボールは逆回転で進みながら生じた揚力で浮き上がります。これがいわゆるキレのあるストレート。
でも馬場さんは手が大きく指も長かったので、3本の指で握るのは不安定だったかもしれません。
おそらく指の腹と手のひらまで深く握って投げていたと思います。この投げ方だとボールに回転がかからないので「球が速くなかった」。
一方で回転が少ない分、空気抵抗を強く受けるのでボールの軌道が微妙に揺れていた(ムービング)のかもしれません。
だから打者のバットの芯から外れて「凡打になる」。打者は芯を外しているので手がしびれて「重い球」と感じたと考えられます。
ただ手首を使わず投げるとヒジを痛めやすい。だから巨人時代の馬場さんは右ヒジ痛に苦しんだそうです。
そしてもう1つの理由は、投げる球に角度がなかったから。朝日新聞の評価では「長身から投げ下ろす」とありました。
でも長身ゆえに上から投げ下ろすオーバースローだと高低のコントロールに苦しんだんじゃないでしょうか。
作品に掲載されている巨人時代の投球シーンの写真では、制球がしやすいとされるスリークォーター。
ななめ上から頭の高さでボールをリリースするので、コントロールがしやすいフォームです。
作品では馬場さんの後輩である世界の本塁打王・王貞治さんの述懐が載っています。
「(フォームに)威圧感というのはありませんでした。スピードもびっくりするような球速ではなかったと記憶しています」「だけど、ボールの球質はとても重かった。プロの投手はこんな球を投げるのかと思った」
高橋など、選手層が薄いほかの球団にいたら、「野球選手・馬場」は違った結果になっていたかもしれません。
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ピッチングでは手首の使い方が大事です |
★球団の内紛に巻き込まれて
馬場さんは1957年シーズンに一軍へ昇格し3試合に登板。そして唯一の勝敗として「1敗」を喫しています。
この試合は10月23日の中日戦で、記念すべき一軍初先発のマウンド。結果は5回1失点と内容としては「好投」です。
当時の巨人監督・水原茂さんは、この試合で杉下さんに「粋なはからい」をしようと馬場さんを先発に起用した。ただ好投で「粋なはからい」をぶち壊しかけた馬場さんが気に入らなかった。
だって当時19歳の新人がチャンスをつかんで、がんばれば一軍に定着できるかもしれない。そんな状況だったんですから…。
巨人は日本シリーズで西鉄に敗れ2年連続で敗退。責任を問われた水原監督はフロントの品川主計社長と対立。当時の読売グループのトップ、正力松太郎さんや報道陣の前で品川社長から「水原くん、あやまりたまえ」と罵倒された。
両者の対立は続きます。当時の巨人は一、二軍間の選手の入れ替えが少なかったそうです。
特に水原監督は「品川派」の新田さんが統括する二軍から選手を上げることが少なかったそうで、影響は馬場さんにも及んだようです。
巨人5年目の1959年、品川球団社長が辞任しコーチ陣から「品川派」があらかた退団。水原さんが主導権を握りました。
馬場さんは二軍スタート。二軍の遠征先で馬場さんは「巨人軍の巨人」として大人気で、二軍最大のスターでした。
でも肩の不調やケガもあって登板数が減り、一軍には上がれずじまい。この年のオフ、球団から解雇されてしまいました。
★移籍が決まっていた大洋での不運
球界には選手を見極めるポイントとして、「大卒3年高卒5年」という節目があるそうです。
入団からのそれぞれの節目で成長や活躍が見込めるか判断しているそう。馬場さんも「高卒5年」の節目で判断されたようです。
巨人コーチだった谷口五郎さん、スカウトの源川栄治さんも大洋に移籍。水原さんと険悪だった三原脩さんも監督に就任。源川さんから電話で「捕手の入団テストをするから投げてくれ」と連絡がありテストに参加。その日のうちに入団が決まった。大洋側が「捕手の入団テスト」の手伝いとしたのは、敵軍だった選手をおおっぴらにテストするのをはばかったようだ。
宿舎で入浴していた際に立ちくらみでガラス戸に倒れ込み、左わき腹から左ひじにかけての裂傷で35針を縫う大ケガを負いました。
一時は左手の中指と薬指が離れない状態に。グラブがはめられないため不採用になりました。
ただケガは2週間で完治。谷口さんらに働きかければ残留は可能だったようですが、馬場さんは「きっぱり野球と決別した」。
5年間の野球生活で自分の立ち位置や伸びしろを痛感し「何でもやろう」と思ったそうです。
球界を引退後、馬場さんはプロレスに転身。日本そして世界で活躍する名レスラーになります。
広尾さんは巨人時代を「ジャイアント馬場」に進化するための「助走期間」で、決して無駄ではなかったとしていますが、ワタシも同感。
「何でもやろう」という必死の覚悟。巨人時代に汗を流したアスリートとしての練習が「ジャイアント馬場」を生んだと思うんです。
まとめ・馬場さんの人柄やプライベートなどのエピソードも楽しめる
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馬場さんの投手時代のことが分かる |
ここまで「巨人軍の巨人 馬場正平」について紹介してきました。
そして、この作品で披露されている馬場さんの生い立ちや「野球選手・馬場正平」について、
- 病気による巨体に悩み続けた馬場さんの少年時代
- 馬場さんはアスリートタイプの「巨人」だった
- 巨人〜大洋、不遇と不運に泣いた「巨漢投手・馬場」
上記の3つのエピソードを紹介&解説してきました。
この作品が素晴らしいのは、馬場さん自身の自伝やウィキペディアなどよりもくわしく「野球選手・馬場正平」が分かること。
公式戦の成績が分かり、エピソードも豊富で楽しめることです。だからこの記事を読んで、
「馬場さんは若い頃にプロ野球の投手だったそうだけど、ドジャース・大谷のような剛速球投手だったの⁉︎」
「馬場さんはどこの球団に所属して、一軍公式戦で何勝しているの⁉︎」
「馬場さんはプロ野球選手としてすごかったの⁉︎」
なんて方は疑問が解消できたと思います。そして、この記事で紹介したのはサワリ程度。
作品のページを開けば、「野球選手・馬場」の人柄や葛藤、宿舎の門限破りや麻雀好きだった面白いエピソードがたくさんあって楽しめるんです。
この記事を踏まえて、ぜひ作品を読んでみてください。
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